大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成2年(レ)26号 判決

主文

一、本件控訴を棄却する。

二、控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

第一、当事者の求めた裁判

一、控訴の趣旨

1. 原判決を取り消す。

2. 被控訴人の請求を棄却する。

3. 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

二、控訴の趣旨に対する答弁

主文第一項と同旨

第二、当事者の主張

一、請求原因

1. 被控訴人は、訴外古賀誠二(以下「古賀」という。)に対する川越簡易裁判所昭和六四年(ハ)第二号貸金請求事件の執行力ある判決正本に基づき、平成元年九月六日、浦和地方裁判所川越支部に対し、古賀が控訴人に対して有する賃金債権につき債権差押命令の申立てをしたところ(同支部平成元年(ル)第三五三号)、同月七日、同支部から元本一四万二一四〇円及び損害金三万七五六四円に執行費用五九九〇円を併せた一八万五六九四円の弁済に充てるため、古賀が控訴人から支給される給料及び賞与からそれぞれ給与所得税、住民税及び社会保険料を控除した残額の四分の一あて右金額に満つるまでを差し押さえる旨の差押命令が発せられ、右命令の正本は、第三債務者である控訴人には同月九日に、債務者である古賀には同年一〇月四日に、それぞれ送達された。

2. 古賀は、右債権差押命令の正本が送達された当時、控訴人の従業員として稼働していたが、控訴人の古賀に対する給料の支払期は毎月二五日であり、また一二月に支給される賞与の支払期は一二月二五日以前であって、その額は給料一箇月分を超える。

3. 控訴人に差押命令が送達された後に支払期の到来する平成元年九月、一〇月及び一一月の古賀の各月額給料から、給与所得税、住民税及び社会保険料を控除した残額の四分の一の額は、いずれも四万九八七〇円であり、その合計額の一四万九六一〇円に、一二月支給の賞与から給与所得税、住民税及び社会保険料を控除した残額の四分の一のうち三万六〇八四円を加えると、前記請求債権及び執行費用の合計一八万五六九四円に満つる。

4. よって、被控訴人は、控訴人に対し、平成元年九月、一〇月及び一一月の給与のうち各四万九八七〇円並びに同年一二月支給の賞与のうち三万六〇八四円の合計一八万五六九四円の支払を求める。

二、請求原因に対する認否

請求原因事実はいずれも認める。

三、控訴人の抗弁

1. 控訴人は、平成元年一月二〇日、古賀に対し、以下の約定の下に二〇〇万円を貸し付けた。

(一)  返済方法

古賀が同年二月以降控訴人から受領する給料及び賞与から給与所得税、住民税及び社会保険料を控除した残額の四分の一あて(各残額が二八万円を超えるときはその残額から二一万円を控除した金額)を各支給時に返還する。

(二)  相殺予約

控訴人は、古賀が右(一)により返還すべき金額を各給料及び賞与から差引相殺することができる。

2. 控訴人は、現在に至るまで、給与及び賞与の支払期にその都度古賀の確認的同意を受けて右相殺予約を実行している。

四、控訴人の主張

以下のとおり、右相殺は、労働基準法二四条の規定する賃金全額払いの原則に反するものではない。

1. 受働債権が賃金であっても、相殺予約に基づく相殺は、労働基準法二四条に反しない。けだし、賃金債権であっても質権の目的とすることは可能であるところ、質権設定と相殺予約とは、法的内容に差はないからである。

2. そうでないとしても、賃金を受働債権とする相殺は、民事執行法上差押えが禁止されない範囲では適法である。右範囲内においては、いずれにせよ労働者は賃金債権の支払を受けられないのであるから、その限度では労働者の利益は問題とならず、これとは無関係に差押債権者と相殺権者間の競合関係が問題になるにすぎず、右関係においては民法の原則に照らし相殺権者が優先する。

3. そうでないとしても、少なくとも現実に他の債権者から賃金債権に対する差押えがされた場合には、債権者相互の利害のみが問題になるのであって、一般の債権法の法理により処理すべきものであり、もはや労働基準法二四条が規律する場面ではなく、当該差押部分を受働債権とする相殺は同条に反することなく有効である。

4. 仮にそうでないとしても、賃金債権を受働債権とする相殺は、賃金の受給時点において労働者自身がこれに同意する限り、労働基準法二四条の制約から離れ、有効に行い得るというべきである。

第三、証拠<省略>

理由

一、請求原因事実は当事者間に争いなく、控訴人の抗弁記載1の事実は被控訴人が明らかに争わないから、これを自白したものとみなす。

二、そこで、控訴人主張の相殺の効力について判断する。

労働基準法二四条一項は、労働者の賃金は労働者の生活を支える重要な財源で、日常必要とするものであるから、これを労働者に確実に受領させ、その生活に不安のないようにするため、一定の場合を除きその全額を労働者に支払わなければならない旨規定したものであって、労働者の賃金債権を受働債権とし、使用者がその労働者に対して有する債権を自働債権として相殺することを許さない趣旨を包含するものである。ところで、本件のように使用者と労働者の双方の合意による相殺予約に基づいてされる相殺も、賃金が現実に労働者に対して支払われないという結果を招来する点において、使用者の一方的な意思表示によってされる相殺と何ら異なるところがないのである。もっとも、相殺予約は、相殺によって不利益を受ける労働者の意思に基づいてされるものであるという点において、使用者の一方的な意思表示によってされる相殺とは異なるが、もし、労働者の同意がありさえすれば前記法条の適用がないとするならば、使用者が、労働者に対する事実上の力関係を背景として、労働者に相殺予約の締結を強要することにより、労働者の保護を図るという前記の法の趣旨を没却する結果となることもあり得る。この点に鑑みるならば、前記法条は、労働者の意思の如何にかかわりなく、賃金が現実に労働者に対して支払われることを確保しようとする趣旨であり、したがって、相殺予約も、これに反するものとして、許されないと解すべきである。

ところで、控訴人は、この点について種々異論を主張するので、以下これについて判断する。

1. 控訴人の主張1について

控訴人は、賃金債権を目的として質権を設定することができることを理由として、賃金債権を受働債権とする相殺予約は許されると主張する。しかしながら、たとえ控訴人が主張するように賃金債権を目的として質権を設定することができるとしても、そのことから論理必然的に、賃金債権を受働債権とする相殺予約が許されるとの結論を導くことができるものではない。

したがって控訴人の右主張は理由がない。

2. 同2について

控訴人は、民事執行法一五二条が差押えを許容する限度においては、賃金債権を受働債権とする相殺は許されると主張する。しかし同条は、債権執行の手続を履践した債権者の取立範囲につき債務者の生活保護の見地から制約を課するものであって、右規定があるからといって、債権執行の手続を履践していない使用者がその範囲では労働基準法二四条一項の賃金全額払いの原則を破って給料債権を自由に相殺することが許されると解することはできない。したがって、控訴人の右主張は理由がない。

3. 同3について

控訴人は、現実に第三者が賃金債権に対する差押えをした場合には、当該差押部分を受働債権とする相殺は有効であると主張する。しかしながら、賃金債権を受働債権とする相殺が禁止されていることは前示のとおりであり、それにもかかわらず、第三者が差押えをした途端に相殺が可能になるという根拠は存在せず、この点の控訴人の主張は、独自の見解であって、到底採用することができない。

4. 同4について

控訴人は、賃金の受給時点において労働者自身が同意する限り有効に相殺をすることができると主張する。しかしながら、控訴人主張の同意は、本件差押え後にされたものであることはその主張自体から明らかであり、そのような同意があったことをもって被控訴人に対抗することはできないというべきであるから、この点の控訴人の主張も理由がない。

以上のとおり、控訴人の主張はいずれも採用することができない。

三、そうすると、被控訴人の請求を認容した原判決は相当であり、本件控訴は理由がないからこれを棄却し、控訴費用の負担について民事訴訟法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 青山正明 裁判官 千葉勝美 田代雅彦)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!